こんにちは。
榎本晋作です。
イギリスに行く前にジタバタシリーズ(笑)で
北海道札幌に続いて今回は京都に来ております。
そう、私、祖父母、両親が皆、京都出身なので
東京で育ったものの血とDNAは純血関西人でございます。
ま、そんなこんなで、京都から50分ほど電車に乗り
山陰線の園部駅に到着しました。
▼こんな感じの駅です。(絵に描いたような田舎)
■海軍兵学校出身の祖父が経営する苗木屋「中西至誠園」
▲丹波の苗木屋「中西至誠園」
園部駅から車で30分ほどで松茸や栗で有名な丹波に到着します。
母方の実家「中西至誠園」はここです。
ここの苗木屋は、京都やその他、関西圏の有名な山々に植える檜(ひのき)や杉などを
作っていて、今や、専業で苗木屋をやっているのは、ここだけとの事。
祖父は、第二次世界大戦中、海軍兵学校におり、戦後、裸一貫から丹波の土地を買い
この苗木屋を立ち上げたそうです。
金を貯めては、丹波に土地を買うのサイクルで、京都の匠にまで認定されるほどの名人になり、今は、おじさんが継いでいます。
軍隊で鍛えられた上に、経営者として苦しい時の日本を生き抜いてきた伝説が
すべてこの苗木という形に現れているように感じます。
余談ですが、そんな祖父は経営者の道を目指す自分にはやたらと厳しいです。。。
▼中西至誠園の檜(ひのき)畑
■丹波から車で30分くらいの田舎、和知に移動
次は父方の祖父に会いに行くため「和知」に移動しました。
丹波は、現在、大型スーパーの他
コンビニがあるくらいまで発展しているのですが
そこから車で30分ほどの和知にあるのは自然のみです!
お店は今だに小さな商店が1個あるのみで、猿の方が人間より数が多いです!
川はキレイに心地よい音を奏(かな)で、山は大きくそびえたちます。
▼和知の川
祖父の家に着いた途端に「熊が出たので、注意してください」という町内放送がありました。
都会では、パニックになるところですが、ここではいつもの事みたいで、誰も驚いてません。至極当然日常茶飯事のようです。
■あの頃は、戦場に行ってお国のために死ぬのが憧れだった。
夕食前に、久々に祖父とじっくり話をしていると、ふと戦時中の話になりました。
祖父は昭和2年生まれの86歳で、18歳の時に空軍に志願して、特攻に行く事になっていたそうです。
(聴力の問題で、海軍配属になったそうです。)
特攻に行く予定だった日にちは、1920年10月15日。
希望通り、空軍に配属であれば、もっと早くに行っていたようです。
また、同じく海軍だった丹波の祖父も10月に特攻に行く予定だったそうです。
つまり、2ヶ月戦争が長く続いてたら、僕はこの世にいませんでした。
その事を祖父に伝えると、祖父は
「今やったら、考えられへんし
今だからこそ、俺らもおかしいと思うわ。
けど、そん時は、お国のために死ぬのは
若者の憧れやったんやわ。
おじぃちゃん、そん時18歳やったから
招集されんかったんで、志願したんや。」
と話してくれました。
■改めて、教育の力と時代ごとの価値観を考える
祖父の話を聞いた時に
僕は改めて、教育という物を力や時代ごとの価値観を感じました。
いいか悪いかは別にして
「国を愛する国民が自国を守るために死ぬのは美しい事」
という教育が様々な場面で行われていたのだと想像できます。
また、祖父の世代になると
今では当たり前に考えられている「人権」
という考え方はピンと来ません。
時代背景や教育によって人の価値観は
こうも大きく変化するのかと改めて驚いた体験でした。
今、僕が持っている「すべての尊い命は尊重されるべき」
という考え方も大きく歴史を見る時には変わった考え方なのだと思います。
また、同じ時代に生きていても、人種、信条、国籍などのバックグラウンドが異なると
価値観は大きく違うという事も多くあります。
そんな時にふと思い出した言葉がありました。
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「隣の人は違う人、異人。
だからこそ、お互いを尊重しなければならない」
元国連難民高等弁務官 緒方貞子
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何が正しいかの意見を述べるのでなく
本記事について、僕の考えは上記の言葉に集約されるのだと感じます。
和知の川の流れを見ながら、ふと、そんな事を考えていました。
■京都府和知の自然の豊かさを感じる川

Shinsaku Enomoto

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